
バングラデシュチッタゴン丘陵地帯とは?

南アジアに位置するバングラデシュ。
チッタゴン丘陵地帯(Chittagong Hill Tracts)はバングラデシュ
東南部に位置しています。
チッタゴン丘陵地帯は、カグラチョリ県、ランガマティ県、バン
ドルバン県の3県で構成されていて
3県の中央に位置するランガマティが丘陵地帯の主要都市になっ
ています。
首都ダッカからは夜行バスで10時間ほどの距離。
インド、ミャンマー国境に面したこの土地はバングラデシュ唯一
の山岳地帯です。
国土の10%にあたるこの場所では、古くから モンゴロイド系の
先住民が焼畑農業を中心に生活を営み
平野部に住んでいる多数派のアーリア系のベンガル人とは異なる
文化を営んできました。
人口の一番多いチャクマ民族に続き、マルマ民族、トリプラ民族などの11の民族、約60万人がここで今も生活を営んでいます。
彼らは、ベンガル人とは異なる民族語や文化を持っており
食事や生活習慣、仏教やキリスト教、ヒンドゥー教を信仰するなどその生活様式は大きく異なっています。
1760年からのイギリス植民地時代では、直接統治は行わず、徴税のみを貸していました。
綿で納税をしたため、この地域は 「Kapas Mahal(綿の地域)」と呼ばれるようになりました。
また、平野のベンガル人の流入が徐々に活発になるのを見て、イギリス政府は1900年に「チッタゴン丘陵マニュアル」(1900年マニュアル)を制定し
ベン ガル人の土地の売買や居住を厳しく制限しました。
そのため、この地域には先住民族が人口のほとんどを占める形で、ベンガル人は商売のために住んでいた人や同じ仏教徒のボロアと呼ばれる人々が少し住んでいた状況でした。また、そのころの彼らの関係は良好で現在も昔から住んでいるベンガル人という「オールドベンガリ」と先住民族は彼らのことを区別して呼びます。
1947年~1971年からのパキスタン時代では、このチッタゴン丘陵地帯マニュアルの権限が徐々に制約され
さらに、1962年にはアメリカの援助でチャクマ族が多く住むランガマティ盆地に発電を目的としたカプタイダムが建設され
10万人近い先住民族が移住を余 儀なくされました。
また、平野部から多くのベンガル人が移住してくるようになって、ベンガル人と先住民族の緊張関係は高まっていきました。
バングラデシュがパキスタンからの独立をした後、先住民族リーダーは、1900年マニュアルにあった権限回復を訴えますが
新政府からは、「あなたたちもベンガル人になりなさい」と、かられの独自の文化やアイデンティティを完全に無視されま す。
抑圧の危機に立たされた先住民族リーダーは、1972年に政治団体であるチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(Parbattya Chattagram Jana Sambati Samiti, PCJSS)を結成。
さらに1973年にはシャンティ・バヒニ(平和軍)という武装部門が結成されバングラデシュ政府軍と事実上戦闘状態に入りまし た。
1979年になると、政府は平野部のベンガル人を入植させる政策を進め、
紛争は深刻度を増していきました。
1983年までに約40万人近いベンガル人 が政府からの土地、現金、食糧配給を
前提に入植し、先住民族と入植者の数は、ほぼ1対1という状況にまでなって
しまいました。
先住民族と入植者の緊張状態は日常的に高く、日常生活の中でのいざこざが大
きな事件ののきっかけになることも多く
13回を超える虐殺事件にまで至りました。
紛争中に土地を失った先住民族は12万件以上、虐殺を恐れてインドに難民化し
た先住民族が6万人以上。
問題解決がきちんとされない理由として、軍や警察の入植者への意識的な加担
があるとされています。
また、紛争の間この地域への外国人の立ち入りが禁止され、軍が日常的に駐屯
し外からの情報が入りにくく、中の情報が外に伝わりにくい状況に立たされてしまいました。
1992年に休戦宣言されたもの和平協定が結ばれたのは、1997年。PCJSSと政府の間で和平協定が結ばれました。
難民の安全な帰還、土地の返還、軍 の撤退、先住民族を優先した政治体制などを条件に、2,000人近いシャンティ・バヒニの武装解除が行なわれ、難民も無事帰還しました。
しかし、和平協定が結ばれた現時点に至っても和平協定の多くが実施されておらず、政府と先住民族との間の緊張感はまだ続いており
現在でも入植者と先住民族の間の小競り合いは日常化しており
土地を奪われたり、女性に対するレイプ事件、襲撃事件などが続いており、この地域に平和は訪れていません。

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